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出会いとしての形  川瀬智之(東京藝術大学准教授:美学)

現代の社会は、声高に話す人々であふれている。主張し、感想を述べ、近況を伝えあう。
メディアの発達に伴って、その度合いは増すばかりである。そうした中にあって、任田
進一の作品に触れる人は、周囲を取りまく話の氾濫とは全く異質なものを見出す。そこ
には、音はない。むしろ、音のなさそのものが際立たせられ、一種の音になっている。
人はその沈黙の声に耳を澄ます。それは、芸術の一つの達成である。任田はどのように
それを実現しているのか。

任田は、これまでに様々なシリーズの作品を制作してきた。たとえば、かつて彼は、土
を球形に固めて水中に吊るし、それが次第に崩れていく様を観察する作品を発表してい
た。近年では、草原や水面を撮影した写真や、水槽に沈めた花が朽ちてゆく様を写した
写真を発表している。今回の展示では、水槽に土を投げ入れたときに水の中で土がとる
一瞬の形を写した作品を見ることができる。

これまでの彼の作品をこのように大まかにでも辿ってみれば、その作品制作に二つの特
徴を見て取ることができる。一つは、制作におけるシステムの存在である。土の球を観
客や作家自身が水の中に吊るし、それが崩れるプロセスを見守る。週に数回、夜明け前
の河原に出かけ、茫漠と広がる草原が一本一本の草として見えるようになるまで分け入
って行き、シャッターを押す。水槽に投げ入れた土が水中でとる形を撮影し、名前をつ
けて分類する。これらがシステムだというのは、一つの定められた方法によって複数の
作品が作られるからである。これまでの作品はいくつかのシリーズからなっているが、
それぞれのシリーズは、独自の制作システムを持つことによって成立しているのである。
もう一つの特徴は、作者の受動性である。球が水の中で崩壊していくプロセスに、作家
自身は関与しない。あくまでそれを見守り、写真に収めるのである。あるいは、河原の
草原に分け入って行くときも、どこまで深く分け入れば一本一本の草を見分けられるの
かは作家には分からないし、その時、草を見るというよりも、草が彼に対して現れるの
である。水面は作家の意志にしたがうものではないし、水中の花がどのように朽ちてい
くかをコントロールする術はない。今回の作品の場合、任田自身の説明によれば、彼は
土を投げ入れる仕方をその都度変えており、それにしたがって土の形のパターンが生じ
るということである。しかし同じパターンの内部でも、土のとる形はそのたびに異なる
し、土が具体的にどのような形をとるかは作者には予想できないのである。

任田が作品制作において、システムを必要とするのは、おそらくこの受動性の状態に身
を置くためである。システムを定め、そのシステムの通りにふるまうのは能動的なこと
であるが、その能動性によって受動性が確保される。では、何のために彼は受動的であ
ろうとするのか。それは、自然の論理に触れ、形と出会うためである。ここで言う自然
とは、人間が対象として周囲に見出す具体的な自然であるとともに、それを生成させる
原理でもある。その働きについて、人はふだん、ほとんど気づくことはない。それは、
人びとが常に何らかの目的のために行動し、その過程の中で生活しているためである。
実践的な目的のための行動は、その目的に合致しないものを遮断する。任田は、目的へ
の過程を離れ、受動性の高い状態に身を置く。そのとき、通常なら気づかれもしないよ
うな自然の生成が彼を取りまく。そこに、形が生まれる。崩れ続ける球を目撃するとき、
その球は形として現れる。草原に分け入る彼に、ある瞬間、一本一本の草という形をと
ったものが現れる。花は水の中でしおれていくが、それを写しとるとき花は形として定
着される。水の中に投げ入れられた土は、形を変容させ続けるが、シャッターが押され
た瞬間に一つの形となる。作者の能動性がシステムによって制限されることによって、
自然はその能動性をあらわにする。もちろん作者は受動性の状態にあるとはいえ、シャ
ッターを押す能動性を保持しているし、原理としての自然は能動的であるが、個々の具
体的自然はその原理に従う受動的存在でもある。作者と自然の双方にある能動・受動の
すべてが、ある調和に達したとき、その調和が形として現れるのである。

任田の作品がつねに一種の静謐さを湛えているとすれば、それは、おそらく彼が、調和
としての形が生まれる、その瞬間をとらえているからである。任田において、形とは、
一つの出会いの出来事である。その時彼が聴いているのは、世界を満たす大きな声では
ない。出来事としての形という、自然と人間との間で小さな声で語られる会話に耳を澄
ますこと、それを他の人々にも伝えること。このことを、任田は、自らの作品を通して
行っているのである。